2015年07月29日

心についてと思ったけど間接発話行為を中心に

思いのほか院試がやばいのではないかとおもいつつあります。
八月に帰ったらやることが山積みで、どうなることやら、、、

昨日無事に抜糸も終えて、レントゲンの結果も良好ということでこのまま気胸が再発しないことを祈るばかり。
しかし、金曜日の夜の胸の痛みはなんだったんだろうか。いや、詩的な意味ではなくてリアルな痛みですよ。

なんか、気胸の術後っていろんな種類の痛みがあるんですよ。例えば、単純に手術の切り口がひりひり痛い、とか、肋間神経痛が損傷してるんで神経痛が痛いとか。それならわかるんですが、金曜日は中が痛かったんですよね。気胸になった人なら誰しもわかると思いますが、気胸の痛みは結構中からくるんですよ。

まぁ、右肺は今回二か所も切り取ってるみたいだし、そのせいでなんかいたかったのかな、、、?とか思いつつ。
そうだと祈りたい、、、


さて、今日は、入院中に読んでいた

ジョン・R・サール『Mind――心の哲学
に関連して。
ジョン・R・サールは、フランスの哲学者ジャック・デリダと言語行為論について論戦を繰り広げたことで有名な現代を代表するアメリカの哲学者です。オースティンの言語行為論を継承し発展させたことでも有名です。

私自身サールについては全然知らなくて、唯一サールの名を目にしたのは「間接発話行為」について大学二年生の時にみんなで発表した時なんですよね。

脱線になりますが、
間接発話行為(indirect speech act)というのは結構面白くて、私たちグループがこれを選んだのは
RSA Animateという、スピーチを絵にして整理しながら追っていく動画サイトで、スティーブン・ピンカーこの動画を見たからなんですね。
https://www.youtube.com/watch?v=3-son3EJTrU

間接発話行為というのは、「発話の字義通りの意味ではない意味を伝える発話行為」てな感じでしょうか。
もっとも単純な例で言うと同じ部屋にいる相手に対して「窓を開けてくれると嬉しいんだけど」という言葉は、「明日は晴れると嬉しいんだけど」とは全く異なった性質を持つということです。「窓を開けてくれると嬉しい」というのは、実は相手に対して「窓を開けてくれ」とやんわり頼んでいるのであって、まさに言外の意味を含むだろうということになります。もし、本当に字義通りに受け取れば「へぇー!君は窓を私が窓を開けると嬉しくなるんだ」と反応することになりかねません。(この間接発話行為に対しては結構異論もあるり、間接発話行為など存在しないという立場もあるようです。)

このような間接発話行為は我々の身の回りにあふれており、そう考えると、私もこのレベルの間接発話行為は果たして間接発話行為ととらえられるべきなのか疑問です。そもそも、字義通りの意味というのは一意的に解釈できるものではないのではないか?例えば、同じ「窓を開けてくれると嬉しいんだけど」という言葉一つとっても、例えば職場でエアコンを入れるか窓を開けるかについて議論しているときには、「私は、エアコンを使うよりは、窓を開けて風を入れる方が私は好きである」というような意味になりますし、そもそもコトバの意味というのをコンテクストから切り離して字義どおりであるか考えることは難しい気もします。

まぁそれはさておき、これをたぶん広い意味でとらえたのがピンカーです。
ピンカーは有名な例を挙げています。
クロッキーが趣味という男が、仲良くなった女友達にこういうわけです。
Would you like to come up and see my etchings?
(家にあがって、僕のクロッキー見ていかないかい?)

これは、割と有名な性的誘い文句らしいのです。ということは、言う側も言われる側も、これは「私とセックスしませんか」というような背後の意味をばっちりわかっているはずです。
なのに、なぜこれを直接言わないのか。お互いに背後にある意味を了解しながらも、なぜ婉曲に表現する必要があるのか?お互いに意味を了解できてしまうならば、直接「セックスしましょう」ということとどう違うのか?ここに、ピンカーの間接発話行為の面白さがあります。

ピンカーによれば、この発話行為では相互知(mutual knowledge)が存在しないことがキーだということです。
mutual knowledgeとは、AさんとBさんがとある事象Xを知っており、互いに相手がXを知っていることも知っているということになります。対する個人知(individual knowledge)は、個人的にXを知ってはいるが、AさんとBさんがお互いに相手がXを知っているかは知らない状況だということになります。

分かりにくいので例を挙げると、S大学の学生で仲の良い太郎君と次郎君は、それぞれ個人的にP大学の花子さんを知っています。太郎君は小学校の頃の塾で花子さんと一緒で、次郎君は花子さんと高校が一緒だったからです。
ここの状態では、individual knowledgeです。太郎も次郎も個人的に花子さんを知ってはいるものの、太郎次郎がお互いに相手が花子さんの知り合いであるとは気付いていません。
そんなとき、太郎と次郎が街であそんでいるとばったり花子さんに遭遇。太郎も次郎も花子さんに声をかけ、
「え!?お前なんで花子知ってるの!?」となるわけです。
ここにおいてmutual knowledgeが成立します。「太郎は次郎が花子さんを知っていることを知っており」「次郎も太郎が花子さんを知っていることを知っていることになります」。さらに言うと「次郎は、太郎さんが次郎自身が花子さんを知っていることを知っていることを知っています」。このように無限に続くわけです。これってちょっとラインの既読システムに似てるところがありますよね。

さて、先ほどの「うちにあがってクロッキーをみないか」という誘い文句は、巧妙にこのmutual knowledgeを避けているということになります。つまり、男も女も「セックスをしよう」という意味Xを個人的には知っているものの、相手がXを知っていること・気づいていることは知らないのです。というわけで、逃げ道を作ることができる、ということになるわけです。

なんか脱線が長すぎました。どうしよう。心についてはまたいつかにするかーw

えーと、心についてですがこの本は、現代の哲学者が書いたとは思えない平易な言葉で書かれています。とはいえ、私は「志向性」の章などよくわからないところが多々ありましたが。

心の哲学に興味があったので読んでみたんですが、わかりやすくさまざまな立場の説が説明されており本当に面白いです。

一応、美についての考察の中で心の哲学も関係あるかなぁと思ったんですが、やっぱりありそうな気がします。
この本の内容を思い出すと楽しくなってきます。

我々の生きる世界のグロテスクさというか、気味悪さというか、科学主義によっては単純な乗り越えが不可能な地平にあるのが心の哲学なんだなと。

なんか疲れたんでまたいつか思い出したことがあれば書きますw
posted by おぎゃん at 11:41| 東京 🌁| Comment(0) | 読書覚書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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